きーおぶざとわいらいと(厨二小並)

やあ、いらっしゃい無駄な事を書き記しております。

▷昔話そのいち


自分で言うのも変な話だが、客観視してもまあまあ薄暗い人生である。


一番古い記憶は4歳の頃 近所の文化ホールの階段を弟と鬼ごっこしながら走る記憶。この脳みそは何気に記憶力がいい。どうでもいい事ばかりを覚えているがな


母親と父親が離婚したのは私が5歳の時 弟は3歳だった。不思議な事に喧嘩していた記憶はない。忘れてしまったのかもしれない。


父親に始めは引き取られた。木造のぼろっちい長屋だ、風呂も木造で夜になるとゴキブリが木の水分をチュゥチュゥ吸いにきていた。幼稚園のお金を払えないと先生に毎回謝ってるのを覚えてる。みどり幼稚園のひよこ組。

父親のお兄さんが漁師で毎日足の折れた蟹を食べていた、弟は嬉しそうに食べていたが私は毎日蟹で飽き飽きしていた。

経済的にももう無理だと思ったのかある日荷物をまとめさせられた。父との最後の日はドラえもんの魔界なんちゃらを見ながら怖いと泣いておでこを撫でられながら寝た。起きたら空港に送られ私と弟二人で飛行機に乗せられて母のいる千葉まで行った。

母親は男関係が激しい人でもう新しい男が出来ていたが私達は普通に馴染めた。

そこそこいい暮らしはしていたと思う。ハムスターを落っことして動かなくなった、それを母が持ち気絶してるだけだから水をかけたらびっくりして起きるよと水道の水をバシャバシャとかけたが結局動かなかった。私は母とどめを刺したのじゃないかと今でも思っている。ちなみに1年ほどで三匹ほどハムスターは変わった。ごめんなさいその時のハムスター。うん。

小学生にあがり。友達もできた。ほとんど男の子だったけど、ママゴトとかは好きじゃなく 木登りとかが好きだった。

一人だけ今でもフルネームを覚えてる子がいる。フィリピンのハーフの子。その時ポケモンの指人形が流行っていて、ニドキングがなかなかでなかった。私は持っていたのだがある日なくなった。

その子が遊びに来た日になくなって、まあそりゃ次の日つめる。当然相手もシラを切るし授業中だったので私の周りは廊下に立たされた。いま思えば廊下に立たさるとかあの先生だけだったなぁ。最初は普通に立ってたんだけどどんどんイライラしてきて結果その子を背負い投げした。そこからは覚えてなく次の日登校中にその子とバッタリ。頭に包帯してた。けど仲直りして普通に学校に一緒に登校した。その時の心情とかおぼえてない。子どもってわからんな。その子の名前を未練たらしく覚えてる。


小さい時からおかしい子どもだったと思う。何かをして家に帰りたくなくて公園で友達に帰らないでと癇癪を起こしたり、休んだ子の所に先生に大事な紙だからちゃんと届けてねと言われたプリントをなくして夜遅くまで探し続け無くて半泣きでその子の家の前をウロウロして、でも怒られるかもだし、とかでピンポン押せないまま数時間。たまたま通りかかったおじいさんにその事を話して一緒に謝ってもらった。あのじじい死んでるかな?あの時はありがとう。私からしたらあんたは神様だった。まあそのあと家に帰ってランドセルあけたらプリントあったんだけどな、あんなに探したのに!と思いつつ証拠隠滅した。

そんな日も終焉を告げるわけですけど。

ある日寝ていたら母と彼氏が喧嘩してたみたい、弟は怯えて泣いていて、私は眠気まなこ。可愛げのあったその頃の私は戸の隙間から【けんかはやめて】という紙を挟むことしかできなかった。

喧嘩はつづき男が母に何かを投げた。
それを見た弟は母の所にいき泣きながら やめて!と叫んだが母にあっちに行けと跳ね除けられる。その時事は弟も鮮明に覚えていたらしく弟いわく、お母さんが傷つけられたから身を挺して守ろうとしたのに跳ね飛ばされて辛かったの覚えてるwと言っていた。その後母は彼氏に電気ストーブを投げてた。

そんな喧嘩の次の日荷物をまとめさせられて鳥取に帰った。友達にお別れも言わないままに あの時は本気で母親に抗議したの覚えている。喧嘩したわりには母は家を出るとき食料の入ったスーパーの袋を二袋玄関の靴箱に置いていた。

おばあちゃんの家に帰るとき猫がちょうどよく死んだ。待ってたのかもねと言われて憂鬱な心にとどめを刺されたわ。そのときの猫の名前はゆうちゃん。

そこから転落するような人生です。
数ヶ月は学校には行かず二年生から通うことになった。

転校って人を変えるのだと思う。
あんなに破天荒な性格が一気に内気になるのだから。知らない人の前に立たされる恐怖。

なんか吐きそうになってきたので今日はここまでにする。



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ヤツメウナギ